昼下がりのパティオ。チャウナカ村にて

第十五話

表街道をはずれる旅は、何処にかぎらず、ひと味深める出会いがあるものだと思う。
地図にも出ていない村、チャウナカは、ヒョンな事で出会った私の桃源郷だ。
変化に富んでいるが、チョットホコリっぽいアンデスの山又山のすき間に出来た、
オアシスのような村。ポトロ村からは、歩いて3時間余り、意外と早く着いた。
村を一廻りするのに、さして時間はかからなかった。村人に教えられた建物を訪ねる
と、背の高い老人が、この地域では珍しい程立派な構えの家の木戸を開けて迎え
入れてくれた。中に入って息を呑んだ。アチコチ崩れかけてはいるが、石柱の立つ
回廊に囲まれたパティオが開けた。 物静かで品のある面立ちのこの人は、宿を探し
ている異国の闖入者に、何のためらいもなく部屋を貸してくれた。 私の通された部屋
は、キッチンのすぐ横にある小部屋で、小間使いの女の子でも居た様なたたずまいに
なっていた。そこで待っていると、かのセニョールがひと抱えのアルパカの毛皮の敷物
をもって来て、ベットの上に2,3枚置き、これにくるまって寝なさいと言ってくれた。狭
いけど、この部屋がこの家で一番暖かいのだとも。
屋敷は二階建てで、一階の正面が広いキッチンになっていて、右奥にデーンと天井ま
で届く、レンガ作りのカマド(オーブン)があった。ここには一日中火が入っていて、
素焼きのナベがのっており、スープやシチューなど、何かしらいい匂いが漂っていた。
パンも焼いているようだった。
数日ここに滞在してわかったことに、70歳後半のこの紳士は、スペインから移住した
一世で、若いときはこのお屋敷を中心にした農園の主だった。今では、村で生まれた
ムチャーチョ(若い男の子)と2人暮らしで、昼間は入れ替わり隣のセニョーラ達が
やって来て、世話をしている。 息子達は、スークレの街へ出て商売や、教師をして
いる。その内の一人がある日訪ねて来て、「父を一人ここへ置くのは心もとないので
兄弟して町へ呼んでいるのだが、父は一歩もここを出ようとしない。少々困っている。
だから時々こうやって様子を見に来るのです」と。 でも私には件(くだん)の老紳士は
ここで来し方を夢見つつ、パティオで遊ぶ、豚やネコ、イヌ、ニワトリ達、身の回りの
世話をしてくれる村のおばちゃん達と暮らす日々が、どんなに平和で、幸福かと、
中庭で日がな一日まどろんでいる姿を見て思った。
貧富の差から起こる昨今のラテンアメリカの諸々の事件を思うとき、この平和な空間
は、私の精神的なもう一つの桃源郷とも思えてくる。 1999年1月6日、享年87歳
私の父が急逝した。チャウナカの人を彷彿とさせる、面影を残して。

頼もしく優しいおなご先生のいる学校

第十六話

チャウナカ村へ注ぐ川にそって少し遡(さかのぼ)ると、いかにも気持良さそうなプラヤ
(砂浜)に出た。辺鄙(へんぴ)な地を旅するグリンゴ達がそうするように、私も何度目
かの沐浴場所を、ここに決めた。 チョット通りから目を遮る岩の陰へ、意を決して
頭の先まで潜る。長居は無用の冷たさだが、その後の壮快感は、何ものにも替えが
たい。 お天気の良い日は、手折って来た枝を砂にさし、顔にだけ日陰をつくるように
して体を横たえ、乾くのを待つ。羊の鳴き声で目を開けると、目が点になった、おさげ
髪の少女と数十頭の羊の群れが、立ち止まってこちらを見つめていた。 ナァーンテ
事もあった。 一度だけ、そこより奥へ小径を歩いてみた。川沿いなので柳など樹々
の緑と、麦の穂が光って風に揺れている。高台にポツリと、小さいが小奇麗な教会が
あり、その下に学校らしき建物がある所に出た。休み時間になったのか、子供達が
校舎の周辺を出入りしている。その内、先生とおぼしき人が出てこられ、2室の内、
先生の部屋の方に通された。昔、日本でも僻地の分校等で見られたような、小・中
学校の下級生は「おなご先生」上級生は「おとこ先生」みたいな、ご夫婦の先生が
おられた。 いろいろ話す内に給食の時間になり、パンとスープを生徒達と一緒にご
ちそうになる。この給食代は、たしか20円位。半分は国から補助が出ているとか。常
に学校に来てる子供達は、全校生徒の三分の二位。来てる子は、ここへ繰れば一食
食べられるから、来てない子は10円が払えないからだと、おなご先生は残念がった。
記念写真を撮ろうと子供達を校舎の前、山をバックに集めてくださる。 子供達は
この山を越えて、6~7Km歩いて通って来るそうだ。オホタというタイヤのゴムを利用
して作ったサンダル以外、靴をはいている子は殆どいないかった。
暖かいスープをすすりながら、男先生は私に向かって言った「僕は早くここから町の
学校へ移りたいと思ってるんですよ。あなたも、彼女にそうするようすすめて下さい。
ここの暮らしは余りに退屈だ・・・」と。又始まった・・・というような顔でおなご先生は、
「私はここが”だぁい好き”山も川もきれいで、子供達も可愛いし・・・どうして町へ
行かなきゃいけないのよ」と笑い飛ばした。もちろん私は、おなご先生の味方でした。


路上でレモンを売る少女(ラ・パス)

兄弟は8人(タカコーマ)

第十七話

「あなたが空港を出て街に着く前に、かっぱらいに会って、お金を取られたとしても
貧しい子供達に、少々お小遣いをやった位に思ってほしい・・」 アルゼンチンの歌手
レオン・ヒエコの自作の歌に、確かこんな出だしの歌詞があった。初めて聴いた時
妙に納得したのを覚えている。 中南米を問わず、どこへ行っても、ラテン・アメリカ
諸国は子沢山だ。それは宗教上の為だったり、ラティノ気質だったり、中には貧困の
構図だなんていう人もいる。そんな勝手な大人の世評はともかく、子供達自身の
たくましさ、生命(活?)力には圧倒される。 兄弟が8人・10人というのはざらだ。
長兄22歳、末弟1歳、上から順番に下の子の面倒をみている。1歳半の弟が「ビィー
」と泣くと、三歳の姉ちゃんがフッ飛んでくる・・・ナンテいう光景を良くみかける。20歳
の兄ちゃんが一家を支えていたりもする。
三千メートル~四千メートルの高地で、歩き始めてまもない女の子が羊の番をしている
のに出くわしたり、家族総出で畑にイモを植えていたり。これはごく普通の農村のあり
方で、アンデスののどかな風景をかもし出しているのだが。
近年、青年達が何かの理由で山を下り、街の暮らしの味を知って、山へ戻って来なく
なったという話を聞く。それによって、共同でとり行ってきた祭り事や、農作業が出来な
くなり、村の形体も崩れかけているとか。 何しろ首都ラ・パスには24時間、キャシュレス
サービスはあるし、友人宅のTVは100チャンネルもある(これには私もビックリ)、
街角でカードがあれば国際電話もOK!の今日この頃。日本に電話しようと思うと、
中央電話局へ出かけ、一日がかりの仕事だった。おまけに、通じたかどうかわから
ない位時差と雑音の多い20年前だったのに。
情報過多の煩わしさから逃げて来たような私には、アンデスの青年達も一度は
通過しなきゃわからない所に来ているかな・・・なんて、お節介セニョーラの弁でした。


サリーリの